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バカラの歴史

クリスタルグラスのトップブランド「バカラ」をとりあげてみました。
マイセン同様、オンラインショッピングでお求め頂くこともできます。


第1回 クリスタルの誕生とバカラの創世紀

クリスタルの誕生

純度の高い透明なガラスは13世紀末頃からムラノ島に住んでいたヴェネチアのガラス職人によって15世紀後半から作られるようになった。効果なソーダ灰を原料に使用して製造され、水晶のようなそれらのガラスは「クリスタッロ」と呼ばれ、王侯貴族など一部の特権階級のために作られていた。

豪華な装飾を施すようになり、17世紀には高級ガラス市場をほぼ独占するまでになっていたが優秀なガラス職人が15〜17世紀にヨーロッパ全土にわたって移住したことにより、ヨーロッパ各地に質の高いガラス製品が製造される拠点が生まれつつあった。

そのように生まれつつあった各拠点のなかで、ボヘミア地方でカリウムと石英の紛体を入れたほぼ透明なガラス開発され、職人のカット技術の進歩とともに高級調度品として人気を博することとなった。現在のボヘミア・クリスタルの原型である。
このガラス製品の誕生・開発の流れの中で、1671年にイングランドのガラス工場の一つで偶然にもクリスタルが誕生する。当時のイングランドでは、造船・建築などへの優先により、燃料が木材から石炭に移行されつつあった。

この時代の要請は、ガラスの坩堝を焚く燃料にも及び燃焼した石炭ガスが坩堝に入り原材料質を悪化させてしまう、という影響が出るようになった。 そこで、坩堝に蓋がつけられたが、それでは溶解時間が長くなり、製造コストが高くなるため技術者達は、新しい溶剤の開発に知恵を絞った。

そして、このイングランドのガラス工場で、溶剤として酸化鉛が試された。その配合の妙により、それまでのガラス製品にはない底しれぬ透明感と優美な輝きをもったガラスが職人達の驚きと共に誕生した。このときの「まるで水晶 (ROCK CRYSTAL)のようだ」という言葉が「クリスタル」の呼び名の由来となっている。

ファインボーンチャイナ同様、クリスタルも職人、技術者のたゆまぬ研究と努力のなかで偶然生まれた天上からの気品ある贈り物ともいえる。

その後、17世紀から18世紀にかけて、炭酸カリウムの焼成や洗鉱、限りある白い珪砂の選別、良質の鉛による酸化鉛の生成など、しだいに純度の高い原料が加工されてクリスタルガラスの品質もますます高くなっていく。
そして、イングランドでのクリスタルガラスの成功はヨーロッパ・北米・インドまで及んだ。

クリスタルガラスとは

【成分】
純白の珪砂、酸化鉛、カリウム、ソーダ灰、酸化金属〜この内、酸化鉛の成分比が24%以上のとき、クリスタルとなる。
なお、バカラのクリスタルだけが成分比30%となっており、透明度・輝き・反響音の素晴らしさの理由はここにある。
クリスタルの比重は3、ガラスは2.5のためクリスタルの方が重い。また、共鳴度はクリスタルがガラスよりはるかに高い。

【屈折率】
純白の珪砂、酸化鉛、カリウム、ソーダ灰、酸化金属〜この内、酸化鉛の成分比が24%以上のとき、クリスタルとなる。
なお、バカラのクリスタルだけが成分比30%となっており、透明度・輝き・反響音の素晴らしさの理由はここにある。
クリスタルの比重は3、ガラスは2.5のためクリスタルの方が重い。また、共鳴度はクリスタルがガラスよりはるかに高い。

バカラの創生期

モンモレンシー・ラバル司教(18世紀半、フランス東部ロレーヌ地方統主)
度重なる戦争で、疲弊しきっていた当時のフランスの状況を憂えたラバル司教は、大量のボヘミアの輸入によるフランスの資金流失がフランス王国再建の障害の一要因であり、それは自国に高級ガラス製造工場が無いためと考えその設立を当時の国王ルイ18世に請願した。

ピエール・A・ゴダール・デマレ(バカラ5代目経営者)
クリスタルについての理念
「クリスタルが数多くの人に愛され、賞賛を受けるためには、その完璧性を維持するこのが重要である。そこで、最良の素材、最高の技術を駆使しなければならず、それらは幾世代にもわたって受け継がれるべきものである。」
ゴダール・デマレの理念に基づいて、19世紀のバカラは完璧性と巧緻な技術を模索し続け、数々の技術が開発された。性能のよい坩堝が開発され、より美しい均一な作品が製造できるようになった。この頃に現在でもバカラの装飾技術の柱となっているグラヴィール技法が確立された。

グラヴィール
仏語で「彫刻」の意味。様々な紋様、花、人物などを量感ある表現でクリスタルガラスに刻み込む技法。バカラでは、エッチングとカパーホイール・エングレイブの2種類のグラヴィール作業が行われている。

カパーホイールエングレイブ
直径1mmから数10mmの様々な銅製ホイールを使い分けながら、クリスタルの表面に彫刻を施す技法。
非常に卓越した技術と集中力を要し、現在バカラでも2名のMOF(フランス最優秀職人)がこの作業にあたっている。この技法は19世紀後半に成熟期を迎え当時のグラヴィール職人は芸術家とみなされた。

エッチング
フッ化水素酸によるクリスタルガラスの腐食を利用した装飾法。
バカラでは、プレーンに残す部分を特殊インクを転写紙で付着させて保護する方法とワックスを付着させて保護する方法の2種類の方法を柄によって使い分けている。
この技法は、多大な労力と時間を要するカパーホイール技法によるコスト高を解決するために開発され、19世紀半以降の生産性はこれにより大幅に向上した。

また、当時の最大のライバルであったボヘミアのガラス業界のもつ色被せガラスの技法も、どの会社よりも早くバカラが解明し、自身の技術として取り入れた。
このようにしてゴダール・デマレの理念を次々と実現していく後進の努力によって1855年、1867年のパリ万国博覧会でバカラには最高賞の栄誉が贈られた。

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第2回 王者たちのクリスタル

バカラ記録保管所に現存するテーブルセットの顧客を番号順に見れば、そこには激動の世界史の側面を垣間見る事ができる。

シャム王国とインド・ラジャスタン地方のマハラジャ、日本の皇室とエジプト最後の王ファールーク、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトとサウジアラビア国王ファイサル、更にはモロッコのムハンマド5世などの名前が、次々に隣り合わせのページに載っているのである。かのJ.F.ケネディは自宅用にクリスタルサービスを備えているほどであった。いつしかバカラは「王者たちのクリスタル」と呼ばれるようになった。

ニコライ2世の大燭台

ニコライ2世。言わずと知れたロシア帝国最後の皇帝である。 1897年、ニコライ2世はバカラのショールームを訪れ、そこに漂う高い芸術性と香りある気品に胸を打たれ、早速、ペテルブルグ宮殿に飾るための大燭台を注文することになる。

ほかにも140燈、5メートルの直径を持つシャンデリアや、直径3メートル、高さ7メートルの噴水など、次々と注文が入ったという。また、今日でも製作されている、贅沢なカットの”コンデ”や”エルベフ”のテーブルサービスも、このとき注文に応じて作られた。当時、ロシアではお酒を飲み干した後、グラスを割るという習慣があり、注文は個数単位ではなく、トン単位で行われた。

バカラではロシアの注文品専用の窯「フル・ルス」を設け生産にあたったといわれている。輸送は隊商(キャラバン)を組んで行われ、ろばの背中に大量のクリスタルを積み込み、何週間もかけてヨーロッパ大陸を横断し、目的地であるペテルブルグやクレムリン宮殿に運び込まれた。 一方、ニコライ2世の燭台の注文は12基にも及んだが、これらは、激動の時代を象徴する運命を辿る事になる。

この大燭台をすべてつくり終えたのが1914年。1914年といえばあの忌まわしい第一時世界大戦が勃発した年である。フランスもたちまち戦火に巻き込まれた。 当時、フランスとロシアは友好関係(英仏露三国協商)にあったが、途中、いくつもの戦場を乗り越えるロシアまでの道のりは困難を極めた。

結局バカラから遠くロシアへと旅立った10台の大燭台は行方知れずとなり、残った2台の燭台も、ロシア3月革命によるニコライ2世の失脚により、フランスを旅立つことはなかった。 現在、パリ、パラディ通りのバカラのショールームには、ロシアに旅立たなかった故に難を逃れた2基の大燭台が、帝政ロシアの威光を物語るかのように燦然と輝いている。

日本の皇室とバカラ

バカラクリスタルが諸国の王侯貴族たちにことのほか愛され、「王者たちのクリスタル」と称されている事は述べた通りである。数多くの王室の中でも、その長い伝統と格式を誇る日本の皇室とも関わり合いがる。

1909年(明治42年)に皇室によりワイングラス36客と、6ピースの水差し、翌1910年(明治43年)にはテーブルサービス一式のご注文を皇室より直接賜り、いずれにも菊の紋章がエッチングされた。 1921年(大正10年)には、時の皇太子が訪欧の際に、パリのバカラ社を訪問されている。 5年後に昭和の世を継承される今上天皇である。

また1984年(昭和59年)には、浩宮皇太子がご訪仏の際、バカラ村の向上までご訪問され、工程のすみずみまでご熱心に見学されたお姿が記憶に新しい。

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