マイセン窯誕生からブルーオニオンのすべてまで

歴史

■洋食器の王様、マイセンについての特集です。

少し専門的で堅苦しい特集となりますが洋食器大好きの皆様にはぜひそのルーツからひもといて、一杯のコーヒー・ティーに2000年の陶磁器の歴史と300年の洋食器の歴史を味わってみて頂きたいと思います。


第1回 マイセン誕生と東洋陶磁器の歴史への誘い

1.中国・日本の陶磁器の近世ヨーロッパ社会への浸透

磁器の歴史とヨーロッパ年表
紀元1世紀 中国ですでに青磁製品が安定して制作されています。
06世紀 随時代に良質の白磁が作られる。唐時代に白磁の生産が盛んになり、唐三彩などが生み出されています。
09−10世紀 五代、宋時代、華北・華南で生産された白磁が、アジア・アフリカ諸国に輸出されるようになります。
13−17世紀 元、明時代になると、白磁はもとより、華やかに彩色された豪華な磁器が現れ、東インド会社の活発な貿易により、ヨーロッパ諸国に次々と紹介されました。これらの中国陶磁は、ヨーロッパ社会で珍重され、豪華な色絵磁器や染付磁器は、バロック文化と同調して爆発的な人気を博していたのです。
特に強い権力と富を得たヨーロッパ各国の王侯・貴族や富裕な商人は争って美しい中国陶器を収集し、邸宅を飾って、それをステイタスシンボルにしていました。
18−19世紀 17世紀半の清朝の鎖国政策により、中国陶磁器の入手が困難となりました。そこで極東貿易の独占により、巨額の富を得ていた東インド会社が目を付けたのが、日本の陶磁器でした。
そしてこの後、ヨーロッパ市場を陶酔に導く日本の磁器が急速にヨーロッパ社会に拡がります。開窯間もないマイセン窯と有田焼の運命的な出会いは、ここから始まったのです。

予備知識

このようにして、東洋磁器の美しさは、当時のヨーロッパの人々を魅了し、自分たちの手で独自で開発したいという願望を呼び起こしました。君主たちは買い付けに大金をはたいて、国庫が乏しくなると錬金術師を呼びつけて、秘密を解き明かすよう厳命しました。

「東洋磁器を入手し、自らの威信を誇示したい」という君主たちの所有欲と顕示欲は、製法の解明が遅れるほどに大きくなっていったのです。それほどまでに、ヨーロッパの人々の東洋磁器に対する情熱は激しく、今日の私たちの想像をはるかに超えるものでありました。

なかでも、もっとも熱烈な愛好家で、その収集に傾注していたのが、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト強王であり、彼の厳命を受けた錬金術師がヨハン・フリードリヒ・ベトガーでした。

そして彼らの情熱が、ついにヨーロッパでの硬質磁器の製造を初めて可能にしたのです。
=現在のマイセン

2.マイセン誕生まで

マイセンと関連事項の年表
1602年 オランダ東インド会社設立。
1609年 オランダと日本の交易開始。
1616年 日本の有田で磁器生産開始。
1647年 柿右衛門が赤絵に成功。
1651年 チルンハウス、生まれる。
1669年 オランダ東インド会社が有田に磁器を大量注文。
1668年 チルンハウス、ライデン大学に学ぶ。
1670年 フリードリヒ・アウグスト一世(強王)生まれる。(〜1733)
1675年 *チルンハウス、パリで白土を用いて磁器焼成の実験開始。
1677年 デルフトのA・デ・ミルデが赤色F器を完成。
1682年 2月4日、*ヨハン・フリードリヒ・ベトガー、生まれる。(〜1719)
1694年 アウグスト強王、選帝侯位に就くチルンハウス、白土から磁器を製造する可能性を説く。
1696年 *ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、生まれる。(〜1775)
1697年 アウグスト強王、ポーランド王位に就くチルンハウス、ドレスデンの「鏡の間」用の鏡を受注。
1698年 ベトガー、薬剤師ツォルンの徒弟となる。
1700年 シュネーベルク近郊の聖アンドレアス鉱山でカオリンを産出。
1701年 ベトガー、ザクセンにてアウグスト強王に捕らえられ、ドレスデンに移されるチルンハウス、アウグスト強王に磁器工場設立を献策する。
1702年 チルンハウス、ベトガーを引見する。
1703年 ベトガー、ボヘミアまで逃亡するが逮捕され、ザクセンに送還される。
1705年 ベトガー、アルブレヒツブルグ城で、磁器と硬質陶器生産の実験開始。
1706年 *ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー、生まれる。(〜1775)
1707年 ベトガーと3人の助手は、王命により新実験室に収容され、住居兼作業場として引き渡される褐色F器(ヤスピス磁器)の試作に成功する。
1708年 ベトガーの実験覚書によれば、硬質白磁の製法の秘密が発見される。
1709年 ベトガーが「非常に滑らか劣らない質の高い白磁を完成した」と、アウグスト王に建白書を提出する。(3月)
釉薬をかけ、しかるべき絵付けを施した、東洋の磁器に勝るともベトガーが「東洋磁器を模した磁器、並びに独自の磁器を完成するにあたっての計画私案」を提出する。(9月)
ついに、ベトガーがアウグスト強王に「白い透明な磁器」「赤色磁器」などの完成を報告する。(10月19日)
1710年 磁器の発明と工場の設立計画が4ヶ国語で布告される。(1月23日)
工場用地が、マイセンのアルブレヒツブルグ城内に決定される。(3月7日)
アルブレヒツブルグ城内に磁器工場が設立される。(6月6日)
マイセン工場より、アウグスト強王に、施釉磁器と無釉磁器が献上される。(6月28日)
ベトガーがマイセン磁器工場の初代監督に任命されるこの頃より、アウグスト強王、東洋の陶磁器を熱心に収集し始める。

*人物紹介

チルンハウス
ガラス、磁器開発の研究家で、アウグスト王とベトガーに影響を与え、磁器発明に重要な役割を演じた。

ベトガー(ヨハン・フリードリヒ・ベトガー)
ヨーロッパで初めて磁器を完成させた錬金術師。

ヘロルト(ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト)
虹の7色を含む多くの磁器用絵具を完成させた化学者、宮廷画家。

ケンドラー(ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー)数々の造形の基本を開発・完成させた彫刻家。

2.マイセン誕生まで

有田焼とマイセン

東洋磁器のなかでも、特にマイセンとのつながりが深いのが、日本の有田焼でした。17世紀半ばの海外貿易の開始によってヨーロッパ市場を意識し、高度な技術と感性を駆使した形・色柄・質が追求されました。
このことがかえって有田焼の進歩を促し、その後のヨーロッパでの絶大な人気を生み出す要因になったのです。

17世紀後半になると、元禄文化を反映した日本独自の豪奢な色絵の古伊万里手や柿右衛門手が作られ、ヨーロッパでのバロック趣味・ロココ趣味に合致して、ますます人気を博するようになり、日本磁器獲得に熱心な王侯貴族はアムステルダムまで人を派遣し、東洋から入る船を待機させたと言われています。
マイセンで、ヨーロッパで最初の磁器が創製されると、1720年代からは柿右衛門模様のマイセンが作られるようになり、この流れは現在まで続いています。

ベトガーが磁器焼成に成功し色絵具が完成すると、有田焼に陶酔していたアウグスト王は、有田焼を手本として、絵付けの練習をさせることで、マイセン工場の手描き技術を向上させました。

左 : 色絵花籠文皿 日本 江戸時代 伊万里 直径30.2cm
右 : 伊万里 直径30.2cm 色絵花卉文面取瓶 1725〜30年頃 高21.3cm

マイセンが誕生するまでに、いかに東洋磁器(特に日本の有田焼)がヨーロッパでもてはやされていたか、お分かり頂けたでしょうか。

私たちの洋食器に対する憧れは、実は300年以上前のヨーロッパの人々の日本の食器(磁器)への憧れとどうしても自らの手で完成させたいという情熱が根元にあったわけです。ちょっと、誇らしい気分になりますね。

出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略

第2回 窯の設立初期の飛躍・発展とマイセンロココ

ヘロルトとケンドラーによるヨーロッパの磁器様式の確立

1.マイセンと関連事項の年表

1719年 ベトガー、ドレスデンで没(1682〜)
1720年 ヘロルト、マイセンの主任絵付け師として雇用される。
マイセン磁器の生産が開始される。
1723年 双剣の窯印が初めて現れる。ヘロルトが染付の製法を入手する。ヘロルトが宮廷絵付け師に任命される。
1727年 ケンドラー、宮廷彫刻師となる。ヘロルト、<港の風景>を作品に描く。
1731年 ヘロルトが製法の秘密を一任され、美術監督となり、かつ宮廷官に叙される。ケンドラー、マイセン工場に雇用される。
1733年 アウグスト強王、ワルシャワで没(1670〜)。ケンドラーが主任型師となる。
1739年 <ブルー・オニオン>文様が採用され始める。
ケンドラー、選帝侯妃マリア・ヨゼファのために<白いがまずみの花(スノー・ボール)>のサービスを作成する。
1740年 ケンドラー、成形・轆轤工房の指揮をとり、徒弟を指導する。
無装飾の磁器の販売が厳禁される。
1741年 工場が王室よりワトーを含む大量の銅版画コレクションを受ける。
1747年 ケンドラー、パリを訪れ、以後、ロココにいっそう傾倒する。
1763年 工場の再編が始まり、絵付け部門は<細密人物画><花><青>の絵付けに分けられる。
フランス人彫刻家M・V・アシエが雇用され、主任型師となる。
1765年 ヘロルト、引退する。
1775年 ヘロルト没 ( 1月26日 )
ケンドラー没 ( 5月18日 )

2.ヘロルトとケンドラー

ベトガーは、1709年磁器の完成を発表しましたが、彩色された文様で飾られた磁器にはほど遠いものでした。強王アウグストの求める東洋磁器を作るには、ベトガーの手による磁器用絵の具のわずかな改善ぐらいでは、ほとんど役に立たなかったのです。
1719年、ベトガー没後、この分野で後を継いだのがヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。ヘロルトは虹の七色を含む多くの色を創造して、磁器用絵の具を完成させました。

ヘロルトの指導のもと、質の高い東洋磁器をモデルに絵付けの練習を繰り返しさせ、1731年になると、マイセン工場の技術水準は、今まで目標にしてきた、すぐれて芸術的な手仕事を進めるのになんら支障のないところまで到達し、ようやく東洋磁器磁器という一つの目的は達せられました。
ヘロルトはマイセン工場の芸術部門を12年間、ただ一人で取りしきり、そのあいだに磁器用の美しい絵の具をほとんど全て完成させました。彼の手で開発された色彩は、270年経った今日も変わることなく用いられて、マイセン磁器の名声にひときわ輝きを添えています。

1731年、王はツヴィンガー宮殿の拡張工事の仕事場で傑出した才能をもつ、一人の若い彫刻家ケンドラーを見出し、マイセン工場に抜擢しました。
ケンドラーは、動物の自然の姿を客観的に把握し、磁器という素材を用いて活写しました。前任者キルヒナーは彫刻家としての造形の原理を、新しい素材に充分に適応させることは出来なかったのです。

これに反してケンドラーは、磁器の持つ本質をたちどころに把握し造形に対する自らの意欲と新しい素材とを見事に合致させることに成功しました。
彫刻家から磁器のモデラーに変身したケンドラーは、東洋磁器に縛られることなく、独自のマイセン磁器の成形を開始しました。

ケンドラーとヘロルトの二人により、マイセン工場は、形態と絵付けの両分野で名実ともに最盛期を迎えたのでした。マイセン工場は、後発のすべての磁器工場を大きくリードしました。
その造形様式は議論の余地なく世界の磁器工場の<規範>となり、あらゆる工場がそれに追随し、模倣していきました。1733年強王アウグストが没し、日本的主題に対する過度の偏重は、少しずつ下火に足り、時代の趣味はロココに向かっていきました。

左 : 染錦手唐草文手付器 日本・有田 17世紀末〜18世紀初
右 : 黄地色絵金彩港系景図八角碗・皿 1740年頃

左 : 染錦手唐草文手付器 ドイツ・マイセン 18世紀
右 : ブルー・オニオン原型 1745年 ケンドラー作

3.マイセン・ロココ

18世紀、ヨーロッパ全土におよんだロココの波は、マイセン磁器工場にもうち寄せました。芸術上のロココの特徴は、バロックの力強さにたいして、その表現は激情から媚態に、直截から風刺に、豪快から優美に、尊大から軽快に、そして強さは愛らしさに、重々しさは品格へと姿を変えていきました。もう一つの特徴は、人間、動物、植物を自然な姿で表現しようとつとめるところです。

マイセン磁器工場においては、バロックからロココへの移行は自然に無理なくおこなわれました。ワトー、 ブーシェ、そのほかのロココの画家たちの作品を下敷きにして生まれた成果の一つ一つは、マイセン磁器の大きな財産となりました。

野外で音楽や踊りに興じる恋人たちの姿は、マイセン・ロココの主要なテーマとなりました。マイセンは、磁器の世界におけるロココ様式の口火をきり、その優美な形態によってすべてのヨーロッパ磁器に深い影響を与えていったのです。

ヘロルトは、ワトーから大きな衝撃を受け、ロココ様式の作品を手がけるようになりました。そこから、 <緑彩のワトー・サービス>が生まれました。この作品によって、マイセン・ロココは芸術的な第一歩を踏み 出しました。
成形分野のロココの先駆者としては、エリアス・マイヤーの名をはぶくわけにはいきません。彼は、ケンドラー や他のマイスター達の強い個性に屈することがありませんでした。マイヤーによる人物像は、初期マイセン・ロココの申し子といって差し支えないでしょう。
マイセン・ロココは人物彫刻に東洋の形態を加えることによって、ますます作風に広がりを増していきました。

<猿の楽団>のように遊びの要素を好む傾向もロココ様式の一つの特徴として上げられます。ケンドラーの後継者の一人と目されて工場に入った、ミッシェル・ヴィクトゥール・アシエは入所当初から完全にマイセン・ロココの特徴を備えており、現代にいたるまで世界中で大きな評価をかちえています。

左 : スピネットの前の恋人達 1741年 ケンドラー作
中 : 踊る男女 1750〜63年頃 マイヤー作
右 : 母子像 1850年頃 アシエ作

4.押し寄せる時代の波

18世紀半ば、イギリスのせっ器メーカー、ウェッジウッドはマイセンの手ごわい競争相手でありました。その製品 は様変わりを見せ始めた顧客層に、圧倒的な比率で浸透しつつあり、多くの工場が<イギリス風のせっ器製品>への模倣へと移行していきました。

こうした大勢下では、マイセン・ロココ磁器は、マイセン工場の地位向上に多少は役だったものの、今まで支配してきたヨーロッパ市場を保持する決定的な力には到底なり得ませんでした。

18世紀から19世紀への移行は、栄光を伴ったものではなかったのです。

出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略

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