■洋食器の王様、マイセンについての特集です。
少し専門的で堅苦しい特集となりますが洋食器大好きの皆様にはぜひそのルーツからひもといて、一杯のコーヒー・ティーに2000年の陶磁器の歴史と300年の洋食器の歴史を味わってみて頂きたいと思います。
- 第1回 マイセン窯誕生と東洋陶磁器の歴史への誘い
- 第2回 マイセン窯設立初期の飛躍・発展とマイセンロココ
- 第3回 マイセン磁器の製造工程とその技術
- 第4回 オリジナル・マイセンの品質と技術の証「青い双剣」
- 第5回 マイセンの新たなる挑戦
- 第6回 マイセン・ブルーオニオンのすべて
第1回 マイセン誕生と東洋陶磁器の歴史への誘い
1.中国・日本の陶磁器の近世ヨーロッパ社会への浸透
| 磁器の歴史とヨーロッパ年表 | |
| 紀元1世紀 | 中国ですでに青磁製品が安定して制作されています。 |
|---|---|
| 06世紀 | 随時代に良質の白磁が作られる。唐時代に白磁の生産が盛んになり、唐三彩などが生み出されています。 |
| 09−10世紀 | 五代、宋時代、華北・華南で生産された白磁が、アジア・アフリカ諸国に輸出されるようになります。 |
| 13−17世紀 | 元、明時代になると、白磁はもとより、華やかに彩色された豪華な磁器が現れ、東インド会社の活発な貿易により、ヨーロッパ諸国に次々と紹介されました。これらの中国陶磁は、ヨーロッパ社会で珍重され、豪華な色絵磁器や染付磁器は、バロック文化と同調して爆発的な人気を博していたのです。 特に強い権力と富を得たヨーロッパ各国の王侯・貴族や富裕な商人は争って美しい中国陶器を収集し、邸宅を飾って、それをステイタスシンボルにしていました。 |
| 18−19世紀 | 17世紀半の清朝の鎖国政策により、中国陶磁器の入手が困難となりました。そこで極東貿易の独占により、巨額の富を得ていた東インド会社が目を付けたのが、日本の陶磁器でした。 そしてこの後、ヨーロッパ市場を陶酔に導く日本の磁器が急速にヨーロッパ社会に拡がります。開窯間もないマイセン窯と有田焼の運命的な出会いは、ここから始まったのです。 |
予備知識
このようにして、東洋磁器の美しさは、当時のヨーロッパの人々を魅了し、自分たちの手で独自で開発したいという願望を呼び起こしました。君主たちは買い付けに大金をはたいて、国庫が乏しくなると錬金術師を呼びつけて、秘密を解き明かすよう厳命しました。
「東洋磁器を入手し、自らの威信を誇示したい」という君主たちの所有欲と顕示欲は、製法の解明が遅れるほどに大きくなっていったのです。それほどまでに、ヨーロッパの人々の東洋磁器に対する情熱は激しく、今日の私たちの想像をはるかに超えるものでありました。
なかでも、もっとも熱烈な愛好家で、その収集に傾注していたのが、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト強王であり、彼の厳命を受けた錬金術師がヨハン・フリードリヒ・ベトガーでした。
そして彼らの情熱が、ついにヨーロッパでの硬質磁器の製造を初めて可能にしたのです。
=現在のマイセン
2.マイセン誕生まで
| マイセンと関連事項の年表 | |
| 1602年 | オランダ東インド会社設立。 |
|---|---|
| 1609年 | オランダと日本の交易開始。 |
| 1616年 | 日本の有田で磁器生産開始。 |
| 1647年 | 柿右衛門が赤絵に成功。 |
| 1651年 | チルンハウス、生まれる。 |
| 1669年 | オランダ東インド会社が有田に磁器を大量注文。 |
| 1668年 | チルンハウス、ライデン大学に学ぶ。 |
| 1670年 | フリードリヒ・アウグスト一世(強王)生まれる。(〜1733) |
| 1675年 | *チルンハウス、パリで白土を用いて磁器焼成の実験開始。 |
| 1677年 | デルフトのA・デ・ミルデが赤色?器を完成。 |
| 1682年 | 2月4日、*ヨハン・フリードリヒ・ベトガー、生まれる。(〜1719) |
| 1694年 | アウグスト強王、選帝侯位に就くチルンハウス、白土から磁器を製造する可能性を説く。 |
| 1696年 | *ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、生まれる。(〜1775) |
| 1697年 | アウグスト強王、ポーランド王位に就くチルンハウス、ドレスデンの「鏡の間」用の鏡を受注。 |
| 1698年 | ベトガー、薬剤師ツォルンの徒弟となる。 |
| 1700年 | シュネーベルク近郊の聖アンドレアス鉱山でカオリンを産出。 |
| 1701年 | ベトガー、ザクセンにてアウグスト強王に捕らえられ、ドレスデンに移されるチルンハウス、アウグスト強王に磁器工場設立を献策する。 |
| 1702年 | チルンハウス、ベトガーを引見する。 |
| 1703年 | ベトガー、ボヘミアまで逃亡するが逮捕され、ザクセンに送還される。 |
| 1705年 | ベトガー、アルブレヒツブルグ城で、磁器と硬質陶器生産の実験開始。 |
| 1706年 | *ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー、生まれる。(〜1775) |
| 1707年 | ベトガーと3人の助手は、王命により新実験室に収容され、住居兼作業場として引き渡される褐色?器(ヤスピス磁器)の試作に成功する。 |
| 1708年 | ベトガーの実験覚書によれば、硬質白磁の製法の秘密が発見される。 |
| 1709年 | ベトガーが「非常に滑らか劣らない質の高い白磁を完成した」と、アウグスト王に建白書を提出する。(3月) 釉薬をかけ、しかるべき絵付けを施した、東洋の磁器に勝るともベトガーが「東洋磁器を模した磁器、並びに独自の磁器を完成するにあたっての計画私案」を提出する。(9月) ついに、ベトガーがアウグスト強王に「白い透明な磁器」「赤色磁器」などの完成を報告する。(10月19日) |
| 1710年 | 磁器の発明と工場の設立計画が4ヶ国語で布告される。(1月23日) 工場用地が、マイセンのアルブレヒツブルグ城内に決定される。(3月7日) アルブレヒツブルグ城内に磁器工場が設立される。(6月6日) マイセン工場より、アウグスト強王に、施釉磁器と無釉磁器が献上される。(6月28日) ベトガーがマイセン磁器工場の初代監督に任命されるこの頃より、アウグスト強王、東洋の陶磁器を熱心に収集し始める。 |
*人物紹介
チルンハウス
ガラス、磁器開発の研究家で、アウグスト王とベトガーに影響を与え、磁器発明に重要な役割を演じた。
ベトガー(ヨハン・フリードリヒ・ベトガー)
ヨーロッパで初めて磁器を完成させた錬金術師。
ヘロルト(ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト)
虹の7色を含む多くの磁器用絵具を完成させた化学者、宮廷画家。
ケンドラー(ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー)数々の造形の基本を開発・完成させた彫刻家。
2.マイセン誕生まで
有田焼とマイセン
東洋磁器のなかでも、特にマイセンとのつながりが深いのが、日本の有田焼でした。17世紀半ばの海外貿易の開始によってヨーロッパ市場を意識し、高度な技術と感性を駆使した形・色柄・質が追求されました。
このことがかえって有田焼の進歩を促し、その後のヨーロッパでの絶大な人気を生み出す要因になったのです。
17世紀後半になると、元禄文化を反映した日本独自の豪奢な色絵の古伊万里手や柿右衛門手が作られ、ヨーロッパでのバロック趣味・ロココ趣味に合致して、ますます人気を博するようになり、日本磁器獲得に熱心な王侯貴族はアムステルダムまで人を派遣し、東洋から入る船を待機させたと言われています。
マイセンで、ヨーロッパで最初の磁器が創製されると、1720年代からは柿右衛門模様のマイセンが作られるようになり、この流れは現在まで続いています。
ベトガーが磁器焼成に成功し色絵具が完成すると、有田焼に陶酔していたアウグスト王は、有田焼を手本として、絵付けの練習をさせることで、マイセン工場の手描き技術を向上させました。

左 : 色絵花籠文皿 日本 江戸時代 伊万里 直径30.2cm
右 : 伊万里 直径30.2cm 色絵花卉文面取瓶 1725〜30年頃 高21.3cm
マイセンが誕生するまでに、いかに東洋磁器(特に日本の有田焼)がヨーロッパでもてはやされていたか、お分かり頂けたでしょうか。
私たちの洋食器に対する憧れは、実は300年以上前のヨーロッパの人々の日本の食器(磁器)への憧れとどうしても自らの手で完成させたいという情熱が根元にあったわけです。ちょっと、誇らしい気分になりますね。
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
第2回 マイセン窯設立初期の飛躍・発展とマイセンロココ
ヘロルトとケンドラーによるヨーロッパの磁器様式の確立
1.マイセンと関連事項の年表
| 1719年 | ベトガー、ドレスデンで没(1682〜) |
|---|---|
| 1720年 | ヘロルト、マイセンの主任絵付け師として雇用される。 マイセン磁器の生産が開始される。 |
| 1723年 | 双剣の窯印が初めて現れる。ヘロルトが染付の製法を入手する。ヘロルトが宮廷絵付け師に任命される。 |
| 1727年 | ケンドラー、宮廷彫刻師となる。ヘロルト、<港の風景>を作品に描く。 |
| 1731年 | ヘロルトが製法の秘密を一任され、美術監督となり、かつ宮廷官に叙される。ケンドラー、マイセン工場に雇用される。 |
| 1733年 | アウグスト強王、ワルシャワで没(1670〜)。ケンドラーが主任型師となる。 |
| 1739年 | <ブルー・オニオン>文様が採用され始める。 ケンドラー、選帝侯妃マリア・ヨゼファのために<白いがまずみの花(スノー・ボール)>のサービスを作成する。 |
| 1740年 | ケンドラー、成形・轆轤工房の指揮をとり、徒弟を指導する。 無装飾の磁器の販売が厳禁される。 |
| 1741年 | 工場が王室よりワトーを含む大量の銅版画コレクションを受ける。 |
| 1747年 | ケンドラー、パリを訪れ、以後、ロココにいっそう傾倒する。 |
| 1763年 | 工場の再編が始まり、絵付け部門は<細密人物画><花><青>の絵付けに分けられる。 フランス人彫刻家M・V・アシエが雇用され、主任型師となる。 |
| 1765年 | ヘロルト、引退する。 |
| 1775年 | ヘロルト没 ( 1月26日 ) ケンドラー没 ( 5月18日 ) |
2.ヘロルトとケンドラー
ベトガーは、1709年磁器の完成を発表しましたが、彩色された文様で飾られた磁器にはほど遠いものでした。強王アウグストの求める東洋磁器を作るには、ベトガーの手による磁器用絵の具のわずかな改善ぐらいでは、ほとんど役に立たなかったのです。
1719年、ベトガー没後、この分野で後を継いだのがヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。ヘロルトは虹の七色を含む多くの色を創造して、磁器用絵の具を完成させました。
ヘロルトの指導のもと、質の高い東洋磁器をモデルに絵付けの練習を繰り返しさせ、1731年になると、マイセン工場の技術水準は、今まで目標にしてきた、すぐれて芸術的な手仕事を進めるのになんら支障のないところまで到達し、ようやく東洋磁器磁器という一つの目的は達せられました。
ヘロルトはマイセン工場の芸術部門を12年間、ただ一人で取りしきり、そのあいだに磁器用の美しい絵の具をほとんど全て完成させました。彼の手で開発された色彩は、270年経った今日も変わることなく用いられて、マイセン磁器の名声にひときわ輝きを添えています。
1731年、王はツヴィンガー宮殿の拡張工事の仕事場で傑出した才能をもつ、一人の若い彫刻家ケンドラーを見出し、マイセン工場に抜擢しました。
ケンドラーは、動物の自然の姿を客観的に把握し、磁器という素材を用いて活写しました。前任者キルヒナーは彫刻家としての造形の原理を、新しい素材に充分に適応させることは出来なかったのです。
これに反してケンドラーは、磁器の持つ本質をたちどころに把握し造形に対する自らの意欲と新しい素材とを見事に合致させることに成功しました。
彫刻家から磁器のモデラーに変身したケンドラーは、東洋磁器に縛られることなく、独自のマイセン磁器の成形を開始しました。
ケンドラーとヘロルトの二人により、マイセン工場は、形態と絵付けの両分野で名実ともに最盛期を迎えたのでした。マイセン工場は、後発のすべての磁器工場を大きくリードしました。
その造形様式は議論の余地なく世界の磁器工場の<規範>となり、あらゆる工場がそれに追随し、模倣していきました。1733年強王アウグストが没し、日本的主題に対する過度の偏重は、少しずつ下火に足り、時代の趣味はロココに向かっていきました。

左 : 染錦手唐草文手付器 日本・有田 17世紀末〜18世紀初
右 : 黄地色絵金彩港系景図八角碗・皿 1740年頃

左 : 染錦手唐草文手付器 ドイツ・マイセン 18世紀
右 : ブルー・オニオン原型 1745年 ケンドラー作
3.マイセン・ロココ
18世紀、ヨーロッパ全土におよんだロココの波は、マイセン磁器工場にもうち寄せました。芸術上のロココの特徴は、バロックの力強さにたいして、その表現は激情から媚態に、直截から風刺に、豪快から優美に、尊大から軽快に、そして強さは愛らしさに、重々しさは品格へと姿を変えていきました。もう一つの特徴は、人間、動物、植物を自然な姿で表現しようとつとめるところです。
マイセン磁器工場においては、バロックからロココへの移行は自然に無理なくおこなわれました。ワトー、 ブーシェ、そのほかのロココの画家たちの作品を下敷きにして生まれた成果の一つ一つは、マイセン磁器の大きな財産となりました。
野外で音楽や踊りに興じる恋人たちの姿は、マイセン・ロココの主要なテーマとなりました。マイセンは、磁器の世界におけるロココ様式の口火をきり、その優美な形態によってすべてのヨーロッパ磁器に深い影響を与えていったのです。
ヘロルトは、ワトーから大きな衝撃を受け、ロココ様式の作品を手がけるようになりました。そこから、 <緑彩のワトー・サービス>が生まれました。この作品によって、マイセン・ロココは芸術的な第一歩を踏み 出しました。
成形分野のロココの先駆者としては、エリアス・マイヤーの名をはぶくわけにはいきません。彼は、ケンドラー や他のマイスター達の強い個性に屈することがありませんでした。マイヤーによる人物像は、初期マイセン・ロココの申し子といって差し支えないでしょう。
マイセン・ロココは人物彫刻に東洋の形態を加えることによって、ますます作風に広がりを増していきました。
<猿の楽団>のように遊びの要素を好む傾向もロココ様式の一つの特徴として上げられます。ケンドラーの後継者の一人と目されて工場に入った、ミッシェル・ヴィクトゥール・アシエは入所当初から完全にマイセン・ロココの特徴を備えており、現代にいたるまで世界中で大きな評価をかちえています。


左 : スピネットの前の恋人達 1741年 ケンドラー作
中 : 踊る男女 1750〜63年頃 マイヤー作
右 : 母子像 1850年頃 アシエ作
4.マイセンに押し寄せる時代の波
18世紀半ば、イギリスのせっ器メーカー、ウェッジウッドはマイセンの手ごわい競争相手でありました。その製品 は様変わりを見せ始めた顧客層に、圧倒的な比率で浸透しつつあり、多くの工場が<イギリス風のせっ器製品>への模倣へと移行していきました。
こうした大勢下では、マイセン・ロココ磁器は、マイセン工場の地位向上に多少は役だったものの、今まで支配してきたヨーロッパ市場を保持する決定的な力には到底なり得ませんでした。
18世紀から19世紀への移行は、栄光を伴ったものではなかったのです。
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
第3回 マイセン磁器の製造工程とその技術
マイセンにおける伝統とは、すなわち恒久的な成功です。
その成功の前提は総合的な枠組みの中でつくられねばならないのです。
マイセン工場で働く人々の熟練、彼らの受けた教育と能力、これらは成功を形作る鎖の重要な一環一環であります。同じくその前提とは、芸術的に一歩先んじること、そして磨きぬかれた磁器生産技術の知識を体得することなのです。
そして、マイセン磁器の最後の鍵となるのは、工場内の作業グループ全体が一つ一つの製品の品質に対して妥協のない姿勢でのぞむことです。
ここではマイセン磁器工場の幅広い作業の中から主要な作業行程である原料生成から、磁器素地生成絵付け、仕上げまでを述べていきたいと思います。
1.原料生成
磁器は天然珪酸塩からなる原料素地が高温過程で変化して出来ます。
一般的に、磁器素地を構成する混合要素であるカオリン、長石、及び水晶を処理することで精細度が得られます。
マイセン磁器はカオリン含有率が約65%と硬質磁器では独特なものなのです。カオリンは200年以上にわたりマイセン近郊にある工場専属の採掘場から取り出されます。
カオリン祖原料はスラッジ法と呼ばれる方法で砂や塊状岩石から分離され、6〜8週間保存されています。
その後、懸濁素地液の水分は求められる加工性質に応じて、圧搾除水機で水分量24〜28%まで脱水され、土練機によって棒状に加工されます。
棒状素地は、最低3ヶ月間湿度の高い地下倉庫で貯蔵され、その後、ろくろ師や陶工師により様々な磁器製品が作り出されることになるのです。

左 : 工程1.磁土の採掘
右 : 工程2.砂利や粗粒を泥漿状に調整
工程3.圧搾除水機で余分の水分の除去

左 : 工程4.仕上がった土の除去
右 : 工程5.土練機による作業
2.磁器原型成形
磁器素地からまず最初に、いわゆる鈴型と呼ばれる原型が形造られます。
鈴型はそのタイプによって「空洞鈴」と「密閉鈴」に分けられます。ろくろ師は、ろくろ台を足で回転させながら水と指先を巧みに使い「空洞鈴」をしだいに上へ上げていくのです。
外側面に出てくる泥土から出る水気は、金属ナイフを使って取り除かれます。この後、この「空洞鈴」はろくろ台から外されます。
この「空洞鈴」は陶工師によって石こう型に押し込まれます。石こう型の内部はレリーフが施されており、陶工師は小さな湿ったスポンジを使って石こう型の壁へしっかりと押し込んでいきます。その際に余分な磁器素地は慎重に取り除かれます。
このようにして形成された磁器素地は約30分間石こう型の中へ静置されます。磁器素地の水分が石こう型に吸収され楽に取り出せる程小さくなります。最後に液状磁器素地「泥土」を使い全部分の形をきれいに整え室温で、再度感想させます。
乾燥させた後は950度の白熱で地焼きされます。

左 : 工程1.轆轤による成形
右 : 工程2.石膏型による成形
3.地塗り絵付け
地塗り絵付けは950度で地焼きされた磁器に絵の具を使い絵付けされます。
使われる絵の具は1400度を超える2度目焼きに耐えられる特殊な絵の具が使われます。マイセンの地塗り絵の具として最も有名なのがコバルトブルーで、18世紀後半から使われています。
その代表の絵柄が世界的に有名な青色の「玉葱模様」です。この模様は、東アジアの要素を取り入れて1739年にマイセンで発案されたものです。
この「玉葱模様」に描かれているのは、果物の桃とざくろなのですが、ざくろは抽象化され、「玉葱模様」(ブルーオニオン)とよばれるようになりました。
この飾りは対象物毎に配置が固定されたいわゆる「連帯模様」で絵付師は装飾表面に連帯模様の輪郭を写し取ります。
写し取りには金属箔が使用され、この金属箔を磁器の上において木炭粉をふりかけます。この様にすることで磁器に模様の輪郭が写し取られるので、時間をかけて模様を配置する手間が省かれます。
そこに水で溶かしたコバルトをいろんなサイズの絵筆を使って絵付けしていきます。この作業は熟練技術を要する作業です。
地焼きした磁器は多孔性のため、水性絵の具は直ちに浸透し修正が許されないからです。この後、うわぐすりに漬けられた多孔性磁器の表面はうわぐすりを吸収して模様全体が白色のうわぐすり層で被われます。
うわぐすりは2度目焼きで透明になり、鮮明な青色がはっきりと映し出されます。このようにして模様は透明なうわぐすりによって保護されるのです。
1723年以来どのマイセン磁器にも双剣マークがコバルトブルーの地塗りで手描きで絵付けされています。有名な青の双剣マークは、不正に手が加えられないようにうわぐすりが守っているのです。
「玉葱模様」(ブルーオニオン)は世界中で数多くのメーカーが製造していますが、しかし、手作業で絵付けされているのはマイセンだけです。
絵付けとうわぐすり作業が済んだあと、36時間ガス窯で焼かれます。
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
第4回 オリジナル・マイセンの品質と技術の証「青い双剣」
1.窯印の意味
磁器の真贋は様式、絵付け方法、さらに製造工場の歴史などを総合的に見て決定が下されます。一方、陶磁器の歴史を見ると、買い手の意向、あるいは売り手そのものによって、窯印に手を加えているものもあるので、陶磁器作品を見分けるとき、形態とか、輪郭、絵付けの色彩などの陶器自体の特徴と共に、彫像や容器の裏側に施された窯印にもそれらに劣らぬ関心が払われるのも当然といえるでしょう。
経験豊かな時期収集家以外は、作品を選択する際に、その作品がどの工場で作られたものかを一つの目安にするに違いありません。
したがって工場はその信頼にそむくようなことがあってはなりません。そこでこの保証の為にマイセン工場では一つの措置を講じています。
これこそが、その製品の規格品質を保証する「青い双剣」なのです。
2.窯印の保証
磁青い双剣マークの窯印が真正のオリジナルマイセンを証明するためには、銘を入れ始めて以来作られてきた製品にも総括的で厳しい品質保証ができることが求められました。国際的にも高い水準にあるマイセン工場で作られた製品の窯印の保証するものは、
- 原料の品質の高さ
- 絵具や釉薬、生地土などに関する化学・物理学的な肯定、及び、調土・焼成などの技術的行程の管理
- 保存されているオリジナルモデルや、指導書に基づくフォルムや装飾との同一性
- 伝統的な手仕事による制作
- 工場の確たる責任体制と高い専門能力
- 絵付前の段階での厳しい白地の選別
- 工人たちの厳しい自己管理
- 的確な経営管理
- 国家による品質管理
- マイセンの典型的なモデラー・成形工・絵付師による一貫性のある仕事
- 制作集団の双造成
- 顧客の反響に関する充分な検討 など
また、長いマイセンの歴史にあたっては、窯印もさまざまに変化してきているので、収集家の中にはマイセン作品の成形工や絵付師の署名に強い関心を抱く人も見られます。
底部に記された窯印は一つ一つの製品の出荷作業が完了するまで、マイセン工場が全責任を負うことを意味するのはいうにおよばず、製品が工場を離れた後もヨーロッパの芸術磁器としての信頼を保つために、可能な限り努力をかつて作られた贋作や模倣品から保護する責任を引き受けています。
古い時代の窯印の権利保護は、国際的な文化史的重要課題といえるでしょう。マイセン磁器製作所が主として18世紀のものであるこれらの窯印に対する商標権を保有しているのはこのためです。
3.窯印の変容
1722年11月8日、ベトガーの後継者として監督をつとめていたシュタインブリュックは一つの提案をしました。
次代の後継者はもとより、遠い将来の後継者たちすべてにあてて、「今後販売されるマイセン磁器にザクセン選帝候の紋章からとった剣の模様を、釉薬の下にコバルトブルーで描く。」この提言以来、青い双剣の名は広く知れ渡りました。
当時マイセン工場は委託注文された磁器に、注文者の頭文字をそれぞれマークとしていれていました。またそのほか一般的に所有者を表すマークが頭文字と組み合わせられて、または単独で用いられていました。
磁器研究所では、所有者を表すマークはインベントリー・マークと名づけられています。紫色や黒色で描かれたインベントリー・マークは宮廷用のセルヴィスにも使われました。
1720年から1740年の間の製品に記された省略形のK.H.K.やK.H.C.前者は王宮の菓子どころを意味し、それに付け加えられたWの文字は首都ワルシャワの宮殿用であることを意味しています。
また、K.H.C.P.はアウグストグスト強王の離宮ピルニッツ城のためのもので、現在ドレスデンの美術コレクションの一部となっています。
今日の基本的シンボル、交差した青い双剣のマークが大勢をしめるに至ったのは、1740年以来のことで、このマークにもさまざまな変形が存在し、マーク本体に書き添えられた印もいろいろあります。当初は青い双剣の形は大きく真っ直ぐでしたが、しだいに優美な曲線で描かれるようになりました。
時折、星や点、数字、曲線などの印が添えられるものもあり、Royal Dresden ChinaやVieux Saxeといった表示が加えられることもありました。
4.マイセンの窯印
コバルトブルーによる双剣の窯印は、シュベルターと呼ばれる窯印専門の絵付師により一点一点手書きで描かれています。
また、歳月とともに選帝候の紋章である剣の描き方にも変化がありました。当初は剣が真っ直ぐで、つばの部分はわずかに曲がり、柄頭も表現されていましたが、時代が下がるとよりサーベルに似た形となり、刀は優雅にわん曲し、つばは真っ直ぐとなり、柄頭は示されなくなりました。
また、刀の交差する位置も上下に移動しています。さらに、星型や点、弓形などのマークを双剣に書き加えたものも現れました。こうした変遷は、専門家にとっては白磁片の制作年代決定の一つの手段となります。
ただ、装飾の終わった製品の制作年は、窯印だけではわからないものです。なぜなら、施釉薬後の製品、あるいはすでに窯印を描いたものが、年十年も保管された後に上絵つけ部門で完成される事もあり、またその事典では異なったマークが使用されることもあるからです。
次にあげる窯印は、マイセン磁器工場の商標として国内及び国際的に登録され、かつ法的に保護されているもので、1875年以来用いられています。
| マイセンマークの変遷 | |
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アウグスト強王のモノグラムは、今でもザクセンの多くの建造物などにみられます。 1720年以来、君主が使用する磁器のマークとして用いられました。しかし当時は、厳密なきまりがなかったようで、1734年4月8日にはザクセン宮廷官房より、ARのモノグラムは「いかなる事情であっても、国王陛下のお許しなくしてこのモノグラムを付けてはならない」との勅命が出されています。 また、アウグスト強王の没後もしばしば用いられていますが、とくに今世紀になってからは、制作年を書き加えることによりオリジナルとの混乱を避けています。 |
|---|---|
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王立磁器工場を省略したもので、当初は選候帝の交差する双剣がない形で1722年から用いられています。 今後全てのマイセン時期にはこのマークを入れるとライプチヒとプラハで公示されましたが、1725年以降は時折用いられる程度になりました。 |
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鞭と呼ばれるこのマークは、しばしば単独で用いられ、また時には他のマークと併用される事もあり、とりわけ1720〜30年間のマイセン磁器に見受けられます。 |
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1723年以降K.P.Mの頭文字と一緒に一つの商標として用いられるようになり、1731年から63年には常にこの窯印が描かれるようになりました。 |
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1756年以後とくに1763年から74年には恒常的に二本の剣のつばの間に小さな一つの点が表現されることになりました。 剣の形もまた以前のものと比べて、かなり変化を見せています。 |
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双剣の柄の間に描かれた小さな星型は、マルコリーニが工場長を勤めていた時代の製品である事を示すもので、1744年から1715年まで用いられました。 |
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星型の廃止後、1820年までの柄の間には数字のTが描かれ、その後どのくらいの期間かはっきりしませんが、Uも用いられています。 |
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以後、わずかに緩やかな弧を描いた刃は、比較的高い位置で交差し、それが下方の柄頭を引き立たせています。 剣はこのまま1924年まで変化しません。 |
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マックス・アドルフ・ファイファーの経営による時代、双剣は優雅にわん曲し、柄頭はなくなり、剣先の間に小さな点が描かれるようになりました。この窯印は1924年から33年まで続きました。 |
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1933年から45年まで、双剣の窯印はほぼ一定の形で描かれています。(マックス・アドルフ・ファイファーの点は描かれていません) |
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第二次世界大戦の終結から1947年までの短い期間、上方が開いた弓形が双剣の下に描かれています。 |
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今日、双剣の窯印はなにも書き加えられていません。 刃の交差する位置は比較的中央で、つばは刃と反対の方向にほぼ同様の弧を描いています。 |
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この窯印は1972年以後の特別な製品に描かれています。 また、すべての印刷物にも国立マイセン磁器制作所のシンボルとして、入れられています。 |
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1919年以来、炉器製品には双剣の窯印に加えてこのマークが描かれています。炉器製品の窯印は手書きではなく、捺印したものを使用しています。 |
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
第5回 マイセンの新たなる挑戦
1945年〜1960年
食糧にも事欠く状況の中で、マイセン工場は、戦後数年の間に中核となる人々を呼び戻し、次世代の教育についても休むことなく継続された。工場に働く一人一人により質の高い製品を制作することを目標に、全力が傾けられた。
1949年にドイツ民主共和国の国家主権が承認されると、最高の技術水準と模範的な企業組織をそなえていたマイセン工場がソヴィエト連邦から返還された。 そして、1950年にこの工場は「国立マイセン時期製作所」と命名された。
1958年には、ドイツ民主共和国への芸術作品の返還が実地され、マイセン工場も完璧な状態で作品を再び手にすることができ、1960年の250年祭を境に、博物館(展示場)も新たに扉を開くこととなった。
良き伝統から新しき創造へ
ドイツ民主共和国政府首相の250年祭での言葉であり、これがその後のマイセン磁器工場の目標となった。
戦後に新しく定められた国民的・文化的課題と経済的な要求との接点のなかでドイツ民主共和国は、マイセン工場に大きな責務を課した。
それは「マイセン磁器に真の関心を抱くすべての人は重い責務を負わねばならず、さもなくばマイセン工場で働く権利はない。」というこのときの首相の発言に集約される。
このときから、国立マイセン磁器工場では、新しい創造活動が開始され、自らの能力に対する正しい評価に基づいて、伝えられてきた原型と文様を目的別に選別し、不断の修練を重ねて制作集団の芸術的・手工芸的技術を高める事が当面の目標となった。
カール・ペーターマンによる新コンセプトに基づく工場再建
1960年代末に、伝統と創造に的確なコンセプトをもつ高額博士カール・ペーターマンがマイセンに入所し、新総裁に就任した。
ペーターマンにより、最高の技術と品質に基づく伝統の保持と市場における多大な芸術的成果の獲得を目的とした数々の改革が実行された。その結果、1970年代には、あらゆる分野、あらゆる段階で、マイセン工場の経営体制・品質管理・創造性すべてについて創設以来、最高の水準に達した。
*ペーターマンは、工場全組織の再建とともに造形面での再建にも尽力した。
新総裁による「芸術創造のための集団」に対する課題提起
250年祭を機に、文化遺産を批判的に摂取しつつ創造的立場伝統を理解する、という意識が高まり、芸術的要請から集団作業の必要性が唱えられ、1968年に「芸術創造のための集団」が編成された。ペーターマンは彼らに対して、以下のようなあらゆる課題を提起した。
- 我々は新たな創造のために人道的な出発点に立っているのだから、これまでの主義を撤回する必要はない。
- 古くからの伝統と、絶対不可欠な芸術上の進歩との複雑な関係の調和を図るために、とりわけ必要とされるのは自らの芸術上の創造的能力である。
- マイセン磁器の伝統を守るということは、マイセン磁器が今まで時代ごとに生み出してきたさまざまな様式を、単に保存継承するというだけでなく、新しいものを創出する義務があるということである。
- マイセン磁器の伝統は「芸術的創造のための集団」がマイセン磁器に関するすべてを把握した上で、マイセン磁器に対して明白なイメージをもつことを求める。
- マイセンの磁器芸術はいかなる時代にも新しいものを追求してきた。
そうでなければマイセン磁器の名に値しないといえる。 - 新しい磁器芸術は、芸術的・技術的な実践によってのみ発展させうるものである。
- マイセン磁器における新しい作品とは、伝統という制約を創造的に拡大してゆくもので、伝統的な造形と対立するものではない。
伝統的であることの制約は、原料や製造工程上の様ざまな前提条件から生じたが、1700年代のケンドラーによる食器の新しい形態の発明は画期的であり完成されたものであるため、マイセンにおいて新しいものを探求することがかえって障害となっていた。
しかし、この基本形は伝統的な食器のフォルムに共通する保守的な印象を与えるので、いずれにせよ、いつかは克服されなければならないものであった。
セルヴィスの造形
ルードヴィッヒ・ツェプナー(1931年生)
1948年から52年まで工場内の職業訓練学校で造形家としての教育を受けた。
その後、ベルリンの芸術専門学校で54年から58年の4年間、造形および芸術学を学び、造形家として学士号を取得し、1964年以来、国立マイセン磁器製作所の「芸術創造のための集団」の主任となる。
現代マイセンのテーブルウェア・セルヴィスのフォルム創作を専門としている。
セルヴィスの器はどれをとっても、ヴェルナーが施したあらゆる種類の絵付けと実によく調和し、このセルヴィスの造形によりツェプナーは造形家としての国際的名声を確立した。
ペーター・シュトラング(1936年生)
1950年から54年までマイセンの職業訓練学校で造形化としての教育を受け、55年以降4年間、ドレスデン芸術専門学校に学び、彫刻学士号を取得。
もっとも年若く表現力豊かな磁器モデラーのシュトラングは、芸術的手腕と新鮮な感覚によって、テーマ上でのマイセン磁器の伝統に広がりを与えた。
ハインツ・ヴェルナー(1928年生)
1943年から48年までマイセンの職業訓練学校で学び、58年まで磁器絵付師、その後は装飾デザイナーとしてマイセンで働いた。
71年にはドレスデン芸術専門学校で学び、絵画学の学位を取得した。画家ヴェルナーは、モデラーや彫刻家のかけがえのないパートナーであり、彼の斬新な仕事が成功したかげには、芸術家相互の深い心情的理解があった。ヴェルナーの芸術的才能は多くのセルヴィスのための絵付けに現れている。
磁器という特殊な素材とマイセン磁器の伝統的な製造工程の中の一工程としての絵付けに精通した上で、いっそう洗練された作品として昇華させることができることが、ヴェルナーの絵付けの本質である。
この基礎があってこそ、磁器という大きな制約のある分野でも、芸術的で個性に富んだ構想を表現することが可能なのである。
ルディ・シュトッレ(1919年生)
1934年から38年まで器のためのリトグラフとグラフィックデザインの専門教育を受け、47年以来マイセン磁器製作所で、最初は花専門の絵付師として働いた。彼の点と線による網目模様を用いた絵画手法は構成力のある作品に、陰影と緊張感と動感をかもしだす。


左 : ティタニアとツェットルの像(真夏の夜の夢)(原型 : シュトラング/装飾 : ヴェルナー)1969年高25.5p
中 : 色絵(千夜一夜物語)ティー用セルヴィス(原型 : ツェプナー/装飾 : ヴェルナー)1973年
右 : 色絵(花の輪舞)ティー用セルヴィス(原型 : ツェプナー1973年/装飾 : ヴェルナー1979年)


右 : 色絵(狩人のほら話)コーヒー用セルヴィス
左 : 青彩蘭花文ティー用セルヴィス(原型 : ツェプナー1973年/装飾 : ヴェルナー1977年)
右 : 陶画(新郎新婦)(装画 : ブレッチュナイダー1988年)
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
第6回 マイセン・ブルーオニオンのすべて
ブルーオニオンの柄は、水蜜桃、石榴、芍薬、竹といった日本的な柄をモチーフにしています。この、水蜜桃は富を、石榴は子孫繁栄、芍薬は不老不死、竹は名声を表現しています。
この石榴が玉葱に似ていることから「ブルーオニオン」の名が付けられました。現在、世界中の約50の企業がマイセンの「ブルーオニオン」の柄を模倣し商品を作っています。
その数の多くの模倣品対策として、1888年頃から竹の幹の部分に青い双剣のマークをいれ、マイセンのオリジナルパターンであることを表しています。
中国の染付けの技法を生かした、きれいな藍色で、飽きがこないで、永く使っていただける食器です。また、この藍色は、和食、洋食、中華などあらゆる料理によくマッチするところが人気の秘密です。

(ブルーオニオン)文ディナー用セルヴィス
原型 : ケンドラー1745年 装飾クレッチマー 1739年(ノイエル・アウシュスニットと呼ばれる型)
制作工程
- 轆轤等で成形したものを、950度で地焼きします。
- 磁器の上におき、木炭粉を振り掛け模様の輪郭を写します。
- コバルトの絵具を使い、写した輪郭にそって手描きで絵付けをします。
地焼きした磁器は多孔性のため、絵具はすぐに浸透し、修正がきかないので熟練した技術を要します。柄は固定されていますが、手で描かれる事によって微妙な変化がでてきます。 - うわぐすりをかけます。うわぐすりは二度焼きで透明になり、模様を保護します。
コバルトの絵具は、最初黒ずんだ色をしていますが、うわぐすりをかけて焼くことによって、きれいなコバルト・ブルーになるのです。
出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室 (監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略
















