洋食器の世界

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マイセン Meissen

第2回 マイセン窯設立初期の飛躍・発展とマイセンロココ

ヘロルトとケンドラーによるヨーロッパの磁器様式の確立
1.マイセンと関連事項の年表
1719年ベトガー、ドレスデンで没(1682〜)
1720年ヘロルト、マイセンの主任絵付け師として雇用される。
マイセン磁器の生産が開始される。
1723年双剣の窯印が初めて現れる。ヘロルトが染付の製法を入手する。ヘロルトが宮廷絵付け師に任命される。
1727年ドレスデンの彫刻家J・G・キルヒナー、マイセンの主任型師となる。
1730年ケンドラー、宮廷彫刻師となる。ヘロルト、<港の風景>を作品に描く。
1731年ヘロルトが製法の秘密を一任され、美術監督となり、かつ宮廷官に叙される。ケンドラー、マイセン工場に雇用される。
1733年アウグスト強王、ワルシャワで没(1670〜)。ケンドラーが主任型師となる。
1739年<ブルー・オニオン>文様が採用され始める。
ケンドラー、選帝侯妃マリア・ヨゼファのために<白いがまずみの花(スノー・ボール)>のサービスを作成する。
1740年ケンドラー、成形・轆轤工房の指揮をとり、徒弟を指導する。
無装飾の磁器の販売が厳禁される。
1741年工場が王室よりワトーを含む大量の銅版画コレクションを受ける。
1747年ケンドラー、パリを訪れ、以後、ロココにいっそう傾倒する。
1763年工場の再編が始まり、絵付け部門は<細密人物画><花><青>の絵付けに分けられる。
フランス人彫刻家M・V・アシエが雇用され、主任型師となる。
1765年ヘロルト、引退する。
1775年ヘロルト没 ( 1月26日 )
ケンドラー没 ( 5月18日 )
2.ヘロルトとケンドラー

ベトガーは、1709年磁器の完成を発表しましたが、彩色された文様で飾られた磁器にはほど遠いものでした。強王アウグストの求める東洋磁器を作るには、ベトガーの手による磁器用絵の具のわずかな改善ぐらいでは、ほとんど役に立たなかったのです。
1719年、ベトガー没後、この分野で後を継いだのがヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。ヘロルトは虹の七色を含む多くの色を創造して、磁器用絵の具を完成させました。

ヘロルトの指導のもと、質の高い東洋磁器をモデルに絵付けの練習を繰り返しさせ、1731年になると、マイセン工場の技術水準は、今まで目標にしてきた、すぐれて芸術的な手仕事を進めるのになんら支障のないところまで到達し、ようやく東洋磁器磁器という一つの目的は達せられました。
ヘロルトはマイセン工場の芸術部門を12年間、ただ一人で取りしきり、そのあいだに磁器用の美しい絵の具をほとんど全て完成させました。彼の手で開発された色彩は、270年経った今日も変わることなく用いられて、マイセン磁器の名声にひときわ輝きを添えています。

1731年、王はツヴィンガー宮殿の拡張工事の仕事場で傑出した才能をもつ、一人の若い彫刻家ケンドラーを見出し、マイセン工場に抜擢しました。
ケンドラーは、動物の自然の姿を客観的に把握し、磁器という素材を用いて活写しました。前任者キルヒナーは彫刻家としての造形の原理を、新しい素材に充分に適応させることは出来なかったのです。

これに反してケンドラーは、磁器の持つ本質をたちどころに把握し造形に対する自らの意欲と新しい素材とを見事に合致させることに成功しました。
彫刻家から磁器のモデラーに変身したケンドラーは、東洋磁器に縛られることなく、独自のマイセン磁器の成形を開始しました。

ケンドラーとヘロルトの二人により、マイセン工場は、形態と絵付けの両分野で名実ともに最盛期を迎えたのでした。マイセン工場は、後発のすべての磁器工場を大きくリードしました。
その造形様式は議論の余地なく世界の磁器工場の<規範>となり、あらゆる工場がそれに追随し、模倣していきました。1733年強王アウグストが没し、日本的主題に対する過度の偏重は、少しずつ下火に足り、時代の趣味はロココに向かっていきました。

染錦手唐草文手付器黄地色絵金彩港系景図八角碗・皿

左 : 染錦手唐草文手付器 日本・有田 17世紀末〜18世紀初
右 : 黄地色絵金彩港系景図八角碗・皿 1740年頃

染錦手唐草文手付器ブルー・オニオン原型

左 : 染錦手唐草文手付器 ドイツ・マイセン 18世紀
右 : ブルー・オニオン原型 1745年 ケンドラー作

3.マイセン・ロココ

18世紀、ヨーロッパ全土におよんだロココの波は、マイセン磁器工場にもうち寄せました。芸術上のロココの特徴は、バロックの力強さにたいして、その表現は激情から媚態に、直截から風刺に、豪快から優美に、尊大から軽快に、そして強さは愛らしさに、重々しさは品格へと姿を変えていきました。もう一つの特徴は、人間、動物、植物を自然な姿で表現しようとつとめるところです。

マイセン磁器工場においては、バロックからロココへの移行は自然に無理なくおこなわれました。ワトー、 ブーシェ、そのほかのロココの画家たちの作品を下敷きにして生まれた成果の一つ一つは、マイセン磁器の大きな財産となりました。

野外で音楽や踊りに興じる恋人たちの姿は、マイセン・ロココの主要なテーマとなりました。マイセンは、磁器の世界におけるロココ様式の口火をきり、その優美な形態によってすべてのヨーロッパ磁器に深い影響を与えていったのです。

ヘロルトは、ワトーから大きな衝撃を受け、ロココ様式の作品を手がけるようになりました。そこから、 <緑彩のワトー・サービス>が生まれました。この作品によって、マイセン・ロココは芸術的な第一歩を踏み 出しました。
成形分野のロココの先駆者としては、エリアス・マイヤーの名をはぶくわけにはいきません。彼は、ケンドラー や他のマイスター達の強い個性に屈することがありませんでした。マイヤーによる人物像は、初期マイセン・ロココの申し子といって差し支えないでしょう。
マイセン・ロココは人物彫刻に東洋の形態を加えることによって、ますます作風に広がりを増していきました。

<猿の楽団>のように遊びの要素を好む傾向もロココ様式の一つの特徴として上げられます。ケンドラーの後継者の一人と目されて工場に入った、ミッシェル・ヴィクトゥール・アシエは入所当初から完全にマイセン・ロココの特徴を備えており、現代にいたるまで世界中で大きな評価をかちえています。

スピネットの前の恋人達踊る男女

左 : スピネットの前の恋人達 1741年 ケンドラー作
右 : 踊る男女 1750〜63年頃 マイヤー作

母子像

母子像 1850年頃 アシエ作

4.マイセンに押し寄せる時代の波

18世紀半ば、イギリスのせっ器メーカー、ウェッジウッドはマイセンの手ごわい競争相手でありました。その製品 は様変わりを見せ始めた顧客層に、圧倒的な比率で浸透しつつあり、多くの工場が<イギリス風のせっ器製品>への模倣へと移行していきました。

こうした大勢下では、マイセン・ロココ磁器は、マイセン工場の地位向上に多少は役だったものの、今まで支配してきたヨーロッパ市場を保持する決定的な力には到底なり得ませんでした。

18世紀から19世紀への移行は、栄光を伴ったものではなかったのです。

出典 : 「マイセン磁器」国立マイセン磁器公団史料編纂室
(監修 三上次雄・吹田安雄)敬称略

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