有名ブランドの誕生から作品作りにかける職人の誇りまでちょっとマニアックに解説します。左のコラムメニューよりお選び下さい。
- 第1回 クリスタルの誕生とバカラの創世紀
- 第2回 王者たちのクリスタル
第2回 王者たちのクリスタル
バカラ記録保管所に現存するテーブルセットの顧客を番号順に見れば、そこには激動の世界史の側面を垣間見る事ができる。
シャム王国とインド・ラジャスタン地方のマハラジャ、日本の皇室とエジプト最後の王ファールーク、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトとサウジアラビア国王ファイサル、更にはモロッコのムハンマド5世などの名前が、次々に隣り合わせのページに載っているのである。かのJ.F.ケネディは自宅用にクリスタルサービスを備えているほどであった。
いつしかバカラは「王者たちのクリスタル」と呼ばれるようになった。
ニコライ2世の大燭台
ニコライ2世。言わずと知れたロシア帝国最後の皇帝である。 1897年、ニコライ2世はバカラのショールームを訪れ、そこに漂う高い芸術性と香りある気品に胸を打たれ、早速、ペテルブルグ宮殿に飾るための大燭台を注文することになる。
ほかにも140燈、5メートルの直径を持つシャンデリアや、直径3メートル、高さ7メートルの噴水など、次々と注文が入ったという。また、今日でも製作されている、贅沢なカットの”コンデ”や”エルベフ”のテーブルサービスも、このとき注文に応じて作られた。当時、ロシアではお酒を飲み干した後、グラスを割るという習慣があり、注文は個数単位ではなく、トン単位で行われた。
バカラではロシアの注文品専用の窯「フル・ルス」を設け生産にあたったといわれている。輸送は隊商(キャラバン)を組んで行われ、ろばの背中に大量のクリスタルを積み込み、何週間もかけてヨーロッパ大陸を横断し、目的地であるペテルブルグやクレムリン宮殿に運び込まれた。 一方、ニコライ2世の燭台の注文は12基にも及んだが、これらは、激動の時代を象徴する運命を辿る事になる。
この大燭台をすべてつくり終えたのが1914年。1914年といえばあの忌まわしい第一時世界大戦が勃発した年である。フランスもたちまち戦火に巻き込まれた。 当時、フランスとロシアは友好関係(英仏露三国協商)にあったが、途中、いくつもの戦場を乗り越えるロシアまでの道のりは困難を極めた。
結局バカラから遠くロシアへと旅立った10台の大燭台は行方知れずとなり、残った2台の燭台も、ロシア3月革命によるニコライ2世の失脚により、フランスを旅立つことはなかった。 現在、パリ、パラディ通りのバカラのショールームには、ロシアに旅立たなかった故に難を逃れた2基の大燭台が、帝政ロシアの威光を物語るかのように燦然と輝いている。
日本の皇室とバカラ
バカラクリスタルが諸国の王侯貴族たちにことのほか愛され、「王者たちのクリスタル」と称されている事は述べた通りである。数多くの王室の中でも、その長い伝統と格式を誇る日本の皇室とも関わり合いがる。
1909年(明治42年)に皇室によりワイングラス36客と、6ピースの水差し、翌1910年(明治43年)にはテーブルサービス一式のご注文を皇室より直接賜り、いずれにも菊の紋章がエッチングされた。 1921年(大正10年)には、時の皇太子が訪欧の際に、パリのバカラ社を訪問されている。 5年後に昭和の世を継承される今上天皇である。
また1984年(昭和59年)には、浩宮皇太子がご訪仏の際、バカラ村の向上までご訪問され、工程のすみずみまでご熱心に見学されたお姿が記憶に新しい。
















